場違いな場所
場違いなところにいる。
決定的に、場違いだ。
というか。
この場所で場違いな居心地の悪さを感じないというのは、どういう人なのだろうか。
そう思いながら、私はモナコのカジノ前にあるカフェド・パリのテラスに座っている。

いでたちは、白と黒のレースのワンピースにシフォンのストール。胸元にはばらのコサージュをつけ、隣には同じく正装した同行者がいる。私たちは、モナコ在住のイタリア人と結婚することになった友人の結婚式に向かう途中なのだ。
ジーンズにTシャツの場違いさとは類が違う。モナコのカジノ前にこんな正装姿でいることの恥ずかしさは超一級品だ。お前は何様のつもりなのだ。そんな姿で、この場に溶け込んでいるとでも思っているのか。ちゃんちゃらおかしいよ。
前に座っているイタリア人を見よ。これが本物のセレブっていうやつだろ。小太りでころあいよく日に焼け、胸元に金の太いチェーンを巻いたイタリア男たちの隣には、スーパーモデルの成れの果てのような女たちが胸元の大きく開いたドレスを着て、首輪に宝石をつけたプードルやチワワを膝に乗せながらたばこをくゆらせている。
もし、と考える。
あの中の一人に声をかけられて、このテーブルにおいでよ、なんて言われたら。
私は尻尾を巻いて後ずさりしながら逃げてくるだろう。すみません、とんでもない、いえいえ。そんな時の自分は、きっとおどおどして、卑屈に違いない。
そんなことを考えながら、道の向こうに目をやると、日本人のカップルがカジノに向かって闊歩しているのが見える。男はさしずめ六本木ヒルズのIT会社社長、女は神田うの(のつもり)といったところか。あまりのステレオタイプのいでたちに、余計なお世話と思いつつ、いたたまれない恥ずかしさを感じる。
この子たちは、ここが自分たちの場所であると思って歩いているのだろうか。
場違いだ、とんでもない、いえいえご辞退いたします、なんて思いもしないのだろうか。
それとも、そんな気持ちに負けないように、体中をブランド品で埋め尽くしているのだろうか。
気がつくと、隣にジーンズにリュックサックの日本人の若者が立って、私に何かを話しかけている。よく聞き取れなかったので「ん?」と聞き返したら、突然おどおどしたかと思うと、身振り手振りを交えて「ドゥーユーハブ ア ライター?」と聞いてきた。
面白いから「NO」と言ってやる。
こんな場所でレースのワンピースに花をつけて、場違いに座っているアジアの顔をした中年女は、この子の中で何に写ったのだろう。どちらにしても、とにかく極めて、絶望的に場違いだ。そして、恥ずかしい。
そんな思いを抱えたまま、丘の上の教会に足を運ぶ。

イタリアは厳格なカソリックの国だ。
教会で執り行われる式は、日本のホテルのインスタント教会もどきの式とはわけが違う。神父の説教がはじまれば、参列者は呼びかけにこたえるように、低い声で何事かをささやき続ける。幾度にもおよぶ聖書の朗読と賛美歌に続き、場を変え、品を変え、宗教の儀式は延々と、延々と繰り返されていく。

教会の結婚式にあこがれて、指輪の交換だの花嫁のキスなんかにあこがれた自分が心底恥ずかしくなる。見世物ではない。結婚は神との契約なのだった、ということを思い知る。こんな重苦しい契約をしたら、生半可な気持ちではいられない。
私もこんな結婚式を挙げていたら、その重さに離婚しなかったかも、などと思ってみる。いや、違う。結婚がこんな重大な契約なのだとわかっていたら、そもそもあんな結婚はしなかった。
新郎と契約書にサインをする新婦の姿が見える。心から祝福したいと思う気持ちの裏っかわで、「年貢の納めどきだね、ご愁傷様」と思ってるちょっといじわるな自分を発見する。
イタリア人にかこまれた結婚パーティ、リゾートホテルのプールサイドでも私は「場違いでごめんなさい」とずっと思っていた。
そして、おどおどしていた。こんな場所にいれるのは一生の思い出だと思って、にこにこしているしかなかった。
こういう場所で、もっと自信を持って立ちまわれる人だったらよかった、と心底思った。
たとえば英語もイタリア語もぺらぺらだったら、有名人だったら、セレブだったら、地位があったら、お金があったら。???
胸を張って、場違いな気持ちを味わずに、おどおどしないでいられるんだろうか。

モナコの思い出は、そんな「場違い」という気持ちで占められている。
ほんとは、普通にそこにいればいいだけなのに。
ただ、私は私でいればいいだけだったのに。
昨年から今年にかけて、政府の委員になったので首相官邸で開催される会議に出席する機会を得た。目の前には総理大臣、周囲はテレビでみかける大臣や官房長官。
最近は心臓に毛が生えてさほどのことでは上がらない。平常心だ。私はここにいていいのだ。だって委員だもん。
そう思って部屋に入ったとたん、あのモナコのカジノ前の気分がよみがえった。
「おお、○○大臣、今日は空港からですか」
『今朝イエメンから戻りました』
「僕はリオデジャネイロに行ってましてね」
“あら、××さんいつもテレビで見ているわよ”
<恐れいります。先日の△△委員会ではお世話になりました。おかげさまで、、、>
んんんん。
いっちょうらを着て、ここに同じように名札を立てて座っているお前は何様のつもりなのだ。この場に溶け込んでいるとでも思っているのか。ちゃんちゃらおかしいよ。
場違いだ。
決定的に、場違いだ。
おそらく、私は今後どんな仕事をしても、どんな暮らしの変化があったとしても、この場所に当たり前のようになじめるような人間になれるわきゃないのだ。そう思って、おどおどする。心の中は、なんだか後ろめたい気持ちでいっぱいになる。
そんな気持ちのまま帰路について、ふと思い出した。
おどおどしていたモナコの結婚式。
1年後、声楽家である新婦が東京で凱旋公演をしたときに、新婦のご両親は客席にいた私をみつけて、何度も手を握り「ありがとう」と言ってくれたのではなかったか。
ありがとう、ありがとう。
本当に来てくれて、ありがとう。
そして、結婚式のことを新聞の連載に素敵に書いてくれて、ありがとう。
どれだけしあわせに思ったことか、と。
場違いだと思って存在している場所にも、ちゃんと自分がいる意味がある。
ただ、ありのままの自分のままで、そこにいればいいだけなのに。
なぜ私はいつも、場違いな場所でおどおどし続けているのだろう。
とはいえ、モナコのパーティや、首相官邸で「場違いだ、恥ずかしい」と感じなくなってしまったら、あたしゃもう終わりなのだ、とも強く思うわけで。
日々の役目を積み重ねながら、場違いな場所でちゃんと「恥ずかしい」と思い続けられる人でありたいと思うのもまた、本音なのかもしれない。
決定的に、場違いだ。
というか。
この場所で場違いな居心地の悪さを感じないというのは、どういう人なのだろうか。
そう思いながら、私はモナコのカジノ前にあるカフェド・パリのテラスに座っている。
いでたちは、白と黒のレースのワンピースにシフォンのストール。胸元にはばらのコサージュをつけ、隣には同じく正装した同行者がいる。私たちは、モナコ在住のイタリア人と結婚することになった友人の結婚式に向かう途中なのだ。
ジーンズにTシャツの場違いさとは類が違う。モナコのカジノ前にこんな正装姿でいることの恥ずかしさは超一級品だ。お前は何様のつもりなのだ。そんな姿で、この場に溶け込んでいるとでも思っているのか。ちゃんちゃらおかしいよ。
前に座っているイタリア人を見よ。これが本物のセレブっていうやつだろ。小太りでころあいよく日に焼け、胸元に金の太いチェーンを巻いたイタリア男たちの隣には、スーパーモデルの成れの果てのような女たちが胸元の大きく開いたドレスを着て、首輪に宝石をつけたプードルやチワワを膝に乗せながらたばこをくゆらせている。
もし、と考える。
あの中の一人に声をかけられて、このテーブルにおいでよ、なんて言われたら。
私は尻尾を巻いて後ずさりしながら逃げてくるだろう。すみません、とんでもない、いえいえ。そんな時の自分は、きっとおどおどして、卑屈に違いない。
そんなことを考えながら、道の向こうに目をやると、日本人のカップルがカジノに向かって闊歩しているのが見える。男はさしずめ六本木ヒルズのIT会社社長、女は神田うの(のつもり)といったところか。あまりのステレオタイプのいでたちに、余計なお世話と思いつつ、いたたまれない恥ずかしさを感じる。
この子たちは、ここが自分たちの場所であると思って歩いているのだろうか。
場違いだ、とんでもない、いえいえご辞退いたします、なんて思いもしないのだろうか。
それとも、そんな気持ちに負けないように、体中をブランド品で埋め尽くしているのだろうか。
気がつくと、隣にジーンズにリュックサックの日本人の若者が立って、私に何かを話しかけている。よく聞き取れなかったので「ん?」と聞き返したら、突然おどおどしたかと思うと、身振り手振りを交えて「ドゥーユーハブ ア ライター?」と聞いてきた。
面白いから「NO」と言ってやる。
こんな場所でレースのワンピースに花をつけて、場違いに座っているアジアの顔をした中年女は、この子の中で何に写ったのだろう。どちらにしても、とにかく極めて、絶望的に場違いだ。そして、恥ずかしい。
そんな思いを抱えたまま、丘の上の教会に足を運ぶ。
イタリアは厳格なカソリックの国だ。
教会で執り行われる式は、日本のホテルのインスタント教会もどきの式とはわけが違う。神父の説教がはじまれば、参列者は呼びかけにこたえるように、低い声で何事かをささやき続ける。幾度にもおよぶ聖書の朗読と賛美歌に続き、場を変え、品を変え、宗教の儀式は延々と、延々と繰り返されていく。
教会の結婚式にあこがれて、指輪の交換だの花嫁のキスなんかにあこがれた自分が心底恥ずかしくなる。見世物ではない。結婚は神との契約なのだった、ということを思い知る。こんな重苦しい契約をしたら、生半可な気持ちではいられない。
私もこんな結婚式を挙げていたら、その重さに離婚しなかったかも、などと思ってみる。いや、違う。結婚がこんな重大な契約なのだとわかっていたら、そもそもあんな結婚はしなかった。
新郎と契約書にサインをする新婦の姿が見える。心から祝福したいと思う気持ちの裏っかわで、「年貢の納めどきだね、ご愁傷様」と思ってるちょっといじわるな自分を発見する。
イタリア人にかこまれた結婚パーティ、リゾートホテルのプールサイドでも私は「場違いでごめんなさい」とずっと思っていた。
そして、おどおどしていた。こんな場所にいれるのは一生の思い出だと思って、にこにこしているしかなかった。
こういう場所で、もっと自信を持って立ちまわれる人だったらよかった、と心底思った。
たとえば英語もイタリア語もぺらぺらだったら、有名人だったら、セレブだったら、地位があったら、お金があったら。???
胸を張って、場違いな気持ちを味わずに、おどおどしないでいられるんだろうか。
モナコの思い出は、そんな「場違い」という気持ちで占められている。
ほんとは、普通にそこにいればいいだけなのに。
ただ、私は私でいればいいだけだったのに。
昨年から今年にかけて、政府の委員になったので首相官邸で開催される会議に出席する機会を得た。目の前には総理大臣、周囲はテレビでみかける大臣や官房長官。
最近は心臓に毛が生えてさほどのことでは上がらない。平常心だ。私はここにいていいのだ。だって委員だもん。
そう思って部屋に入ったとたん、あのモナコのカジノ前の気分がよみがえった。
「おお、○○大臣、今日は空港からですか」
『今朝イエメンから戻りました』
「僕はリオデジャネイロに行ってましてね」
“あら、××さんいつもテレビで見ているわよ”
<恐れいります。先日の△△委員会ではお世話になりました。おかげさまで、、、>
んんんん。
いっちょうらを着て、ここに同じように名札を立てて座っているお前は何様のつもりなのだ。この場に溶け込んでいるとでも思っているのか。ちゃんちゃらおかしいよ。
場違いだ。
決定的に、場違いだ。
おそらく、私は今後どんな仕事をしても、どんな暮らしの変化があったとしても、この場所に当たり前のようになじめるような人間になれるわきゃないのだ。そう思って、おどおどする。心の中は、なんだか後ろめたい気持ちでいっぱいになる。
そんな気持ちのまま帰路について、ふと思い出した。
おどおどしていたモナコの結婚式。
1年後、声楽家である新婦が東京で凱旋公演をしたときに、新婦のご両親は客席にいた私をみつけて、何度も手を握り「ありがとう」と言ってくれたのではなかったか。
ありがとう、ありがとう。
本当に来てくれて、ありがとう。
そして、結婚式のことを新聞の連載に素敵に書いてくれて、ありがとう。
どれだけしあわせに思ったことか、と。
場違いだと思って存在している場所にも、ちゃんと自分がいる意味がある。
ただ、ありのままの自分のままで、そこにいればいいだけなのに。
なぜ私はいつも、場違いな場所でおどおどし続けているのだろう。
とはいえ、モナコのパーティや、首相官邸で「場違いだ、恥ずかしい」と感じなくなってしまったら、あたしゃもう終わりなのだ、とも強く思うわけで。
日々の役目を積み重ねながら、場違いな場所でちゃんと「恥ずかしい」と思い続けられる人でありたいと思うのもまた、本音なのかもしれない。

