■ たびあるき手帖 ■

いまここにある どこかべつのばしょ
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場違いな場所
 場違いなところにいる。
 決定的に、場違いだ。

 というか。
 この場所で場違いな居心地の悪さを感じないというのは、どういう人なのだろうか。
 そう思いながら、私はモナコのカジノ前にあるカフェド・パリのテラスに座っている。



 いでたちは、白と黒のレースのワンピースにシフォンのストール。胸元にはばらのコサージュをつけ、隣には同じく正装した同行者がいる。私たちは、モナコ在住のイタリア人と結婚することになった友人の結婚式に向かう途中なのだ。

 ジーンズにTシャツの場違いさとは類が違う。モナコのカジノ前にこんな正装姿でいることの恥ずかしさは超一級品だ。お前は何様のつもりなのだ。そんな姿で、この場に溶け込んでいるとでも思っているのか。ちゃんちゃらおかしいよ。
 前に座っているイタリア人を見よ。これが本物のセレブっていうやつだろ。小太りでころあいよく日に焼け、胸元に金の太いチェーンを巻いたイタリア男たちの隣には、スーパーモデルの成れの果てのような女たちが胸元の大きく開いたドレスを着て、首輪に宝石をつけたプードルやチワワを膝に乗せながらたばこをくゆらせている。


 もし、と考える。
 あの中の一人に声をかけられて、このテーブルにおいでよ、なんて言われたら。
 私は尻尾を巻いて後ずさりしながら逃げてくるだろう。すみません、とんでもない、いえいえ。そんな時の自分は、きっとおどおどして、卑屈に違いない。

 そんなことを考えながら、道の向こうに目をやると、日本人のカップルがカジノに向かって闊歩しているのが見える。男はさしずめ六本木ヒルズのIT会社社長、女は神田うの(のつもり)といったところか。あまりのステレオタイプのいでたちに、余計なお世話と思いつつ、いたたまれない恥ずかしさを感じる。

 この子たちは、ここが自分たちの場所であると思って歩いているのだろうか。
 場違いだ、とんでもない、いえいえご辞退いたします、なんて思いもしないのだろうか。
 それとも、そんな気持ちに負けないように、体中をブランド品で埋め尽くしているのだろうか。

 気がつくと、隣にジーンズにリュックサックの日本人の若者が立って、私に何かを話しかけている。よく聞き取れなかったので「ん?」と聞き返したら、突然おどおどしたかと思うと、身振り手振りを交えて「ドゥーユーハブ ア ライター?」と聞いてきた。
 面白いから「NO」と言ってやる。
 こんな場所でレースのワンピースに花をつけて、場違いに座っているアジアの顔をした中年女は、この子の中で何に写ったのだろう。どちらにしても、とにかく極めて、絶望的に場違いだ。そして、恥ずかしい。

 そんな思いを抱えたまま、丘の上の教会に足を運ぶ。



 イタリアは厳格なカソリックの国だ。
 教会で執り行われる式は、日本のホテルのインスタント教会もどきの式とはわけが違う。神父の説教がはじまれば、参列者は呼びかけにこたえるように、低い声で何事かをささやき続ける。幾度にもおよぶ聖書の朗読と賛美歌に続き、場を変え、品を変え、宗教の儀式は延々と、延々と繰り返されていく。



 教会の結婚式にあこがれて、指輪の交換だの花嫁のキスなんかにあこがれた自分が心底恥ずかしくなる。見世物ではない。結婚は神との契約なのだった、ということを思い知る。こんな重苦しい契約をしたら、生半可な気持ちではいられない。
 私もこんな結婚式を挙げていたら、その重さに離婚しなかったかも、などと思ってみる。いや、違う。結婚がこんな重大な契約なのだとわかっていたら、そもそもあんな結婚はしなかった。
 新郎と契約書にサインをする新婦の姿が見える。心から祝福したいと思う気持ちの裏っかわで、「年貢の納めどきだね、ご愁傷様」と思ってるちょっといじわるな自分を発見する。

 イタリア人にかこまれた結婚パーティ、リゾートホテルのプールサイドでも私は「場違いでごめんなさい」とずっと思っていた。
 そして、おどおどしていた。こんな場所にいれるのは一生の思い出だと思って、にこにこしているしかなかった。
 こういう場所で、もっと自信を持って立ちまわれる人だったらよかった、と心底思った。
 たとえば英語もイタリア語もぺらぺらだったら、有名人だったら、セレブだったら、地位があったら、お金があったら。???
 胸を張って、場違いな気持ちを味わずに、おどおどしないでいられるんだろうか。



 モナコの思い出は、そんな「場違い」という気持ちで占められている。
 ほんとは、普通にそこにいればいいだけなのに。
 ただ、私は私でいればいいだけだったのに。


 昨年から今年にかけて、政府の委員になったので首相官邸で開催される会議に出席する機会を得た。目の前には総理大臣、周囲はテレビでみかける大臣や官房長官。
 最近は心臓に毛が生えてさほどのことでは上がらない。平常心だ。私はここにいていいのだ。だって委員だもん。

 そう思って部屋に入ったとたん、あのモナコのカジノ前の気分がよみがえった。
「おお、○○大臣、今日は空港からですか」
『今朝イエメンから戻りました』
「僕はリオデジャネイロに行ってましてね」
“あら、××さんいつもテレビで見ているわよ”
<恐れいります。先日の△△委員会ではお世話になりました。おかげさまで、、、>

 んんんん。
 いっちょうらを着て、ここに同じように名札を立てて座っているお前は何様のつもりなのだ。この場に溶け込んでいるとでも思っているのか。ちゃんちゃらおかしいよ。

 場違いだ。
 決定的に、場違いだ。

 おそらく、私は今後どんな仕事をしても、どんな暮らしの変化があったとしても、この場所に当たり前のようになじめるような人間になれるわきゃないのだ。そう思って、おどおどする。心の中は、なんだか後ろめたい気持ちでいっぱいになる。



 そんな気持ちのまま帰路について、ふと思い出した。
 おどおどしていたモナコの結婚式。
 1年後、声楽家である新婦が東京で凱旋公演をしたときに、新婦のご両親は客席にいた私をみつけて、何度も手を握り「ありがとう」と言ってくれたのではなかったか。
 ありがとう、ありがとう。
 本当に来てくれて、ありがとう。
 そして、結婚式のことを新聞の連載に素敵に書いてくれて、ありがとう。
 どれだけしあわせに思ったことか、と。

 場違いだと思って存在している場所にも、ちゃんと自分がいる意味がある。
 ただ、ありのままの自分のままで、そこにいればいいだけなのに。
 なぜ私はいつも、場違いな場所でおどおどし続けているのだろう。


 とはいえ、モナコのパーティや、首相官邸で「場違いだ、恥ずかしい」と感じなくなってしまったら、あたしゃもう終わりなのだ、とも強く思うわけで。

 日々の役目を積み重ねながら、場違いな場所でちゃんと「恥ずかしい」と思い続けられる人でありたいと思うのもまた、本音なのかもしれない。

 
持たないという美学
 ローマからアウストラーダ(高速道路)でフィレンツェへ。その道程にあるアッシジで昼食がてら足を休める。
 イタリアのアウストラーダは、日本の高速道路をお手本にしたのだという。へー。そりゃ意外だな。

 イタリア郊外をドライブしているというのに、窓外に広がるのは拍子抜けするぐらい、日本のどここかで見慣れた自然の造詣だ。ドイツのアウトバーンや、フランスの平坦な穀物畑の続く風景とはまったく違う、細かい起伏を繰り返して蛇行するイタリアのアウストラーダ。
 里山のある日本の風景と、イタリアの田舎町の風景がどことなく似ていることに、意外な驚きを持って窓外の景色にみとれてしまう。そうか、ここイタリアもまた、細長く南北に伸びる火山の国だった。



 ただ、街の構造は日本と決定的に違う。里山に神が宿ると信じた日本は、山の頂上に社を建て、その山が見下ろす平地に民家を密集させて街を作った。
 イタリアの山の頂上にも教会がある。でもその教会の周りにはぎっしりと石の民家が立ち並び、斜面を埋めている。イタリアの郊外の風景の中に見える小高い丘は、だから緑ではなく石とれんがの色だ。 高い場所から低い場所に流れるに従い民家は減り、平地には乾いた牧草地帯が広がって緑色に変わって行く。
 常に外敵の襲来にさらされていた彼らにとって、一番大切なものは城壁で囲み山の頂上に据えて、周囲に街を作り守る必要もあったのかもしれない。こうしてイタリアの教会にいる神様は街の一番の中心にあり、常に信仰と契約で市民の日常に密接に関与してきた。

 長い歴史と人々の思惑の集積。
 ヨーロッパを旅するときは、キリスト教とどう向き合えばいいのか、と考えてしまう。有名な観光地、美しい異国情緒などと考えてむやみに足を踏み込むと、日本人である私には到底太刀打ちできない世界が広がっていて、立ちすくむことも多い。



 アッシジには、小高い山の中腹に聖フランチェスコ教会があって、小さな田舎町には常に観光バスが頻繁に行き来している。

 聖フランチェスコといえば、映画「ブラザーサン・シスタームン」でつぎはぎだらけのぼろ服をまとって、フランシスコ・ザビエルのようなかっぱ状態のはげ頭で、小鳥に説教をしている姿を思い浮かべる人も多いはずだ。
 清貧を重んじた修道院生活では、ぼろ服の腰に縄のベルトが巻かれ、「清く、貧しく、美しく」を意味する3つの結び目が作られた。映画でも繰り返し語られたこの清貧の美学を期待して、アッシジの聖フランチェスコ教会の門をくぐる。


「家も、財産も、地位も。所有してしまった人は失うことを恐れるようになる。フランチェスコはすべてを神に捧げ、何も持たないことを身上として生きたのだ」。


 そんなガイドブックの説明を読みながら。
 でも、目の前にある聖フランチェスコ教会の礼拝堂の中はジョット・ジマブエのフレスコ画がぎっしりとひしめき、黄金色に輝いてまばゆい限りだ。
 清貧とは程遠い空気感に満ちあふれたこの教会は、フランチェスコの死後に建て直され、彼の功績をたたえてここまで立派になったのだという。教会の地下には、いまも彼の亡骸が安置されている。




 自分が「人生でいろいろなものを所有しすぎてしまった」と考えるようになったのは、いつごろからだっただろう。
 
 一人前になるために、必要だったさまざまなもの。
 学歴、社会的な居場所、家族、家。心地いい家具、使いやすい食器類、季節に合わせた衣類、化粧品、本、家電。
 私を豊かにしてきてくれたはずの、家いっぱいの持ち物が、今の私をどこかで不自由にしている気持ちになった40歳の春。これだけのものをもってしまったら、私はもうどこにも行けず、どこにも生き方を変えられなくなってしまわないか。

 少しづつ、少しづつ有形無形の持ち物を減らしてきたここ数年。

 これから先の人生は、減らすことだけを考えよう。
 かばん一つでどこにでも行ける老人になろう。
 そして、死のあとに何も残さない人生をまっとうしよう。

 そうか。そんなことを考えるようになったのは、10年前に祖母を亡くしてからかもしれない。

 おおらかで暖かく、やさしかった祖母。そんな祖母は、しかし94才で死を目前にしても、強烈に「死にたくない」と生に執着した。戦前から戦後にかけて波乱の時代を生きた彼女は、同時に「残すこと」を人生の証とした人でもあり、だからこそ最後まで「何一つ手放さない」という強い意志を持って暮らした人でもあった。
 その祖母のDNAを受けついだ娘、つまり私の母は、70歳を超えた今、「私が死んでも絶対に家を処分してはならない。そして決して何一つ捨てないで欲しい」と言いながら老年を迎えている。

 生きた証としての「人生で積み重ねたもの」。
 それを後世に残すという使命感。 
 2世代にわたる女のそんなエネルギーをきちんと受け止めた上で。
 それでも私は「かばん一つで生きられる人になりたい」と願ってしまう。
 それは、豊かな時代を生きたからこそ言える言葉なのかもしれない。

 持たずに、死ぬ。
 そんなことが安易に言えるのは、一度持った経験があったから。
 と、少し皮肉な目で自分を見てみたりもする。


 清貧を貫いたとされる聖フランチェスコの伝説は、実は後世にだいぶ脚色されたものであるとの見方もあるようだ。実際には「清貧の思想を愛した」だけで、彼の出自は裕福な貴族の出であった。「持ちたくても持てない」という体験をしたことがない、豊かだったからこその場所に生まれた、「持たない」という美学。

 その清貧は多くの人の心をひきつけ、アッシジのこの場所を世界的に有名な場所にしたけれど、結局フランチェスコの清貧を愛した人たちは、この場所を金色に輝くフレスコ画で飾り、立派な教会を作って彼の功績を称えている。

 持たずに、死ぬ。
 執着を捨て、生きる。

 それはある意味、一度持ったことのある人間が希求するファンタジーの世界でもあり、持たないと願った人間のあとには、また持ちたいと願う人間が集うのかもしれない。


 アッシジの聖フランチェスコ教会は、清貧と豊穣が同居する不思議な場所だ。唯一、修道院の中庭を抜けて碧い芝生を横切った先に広がっていた、坂道に張り付くように立ち並ぶイタリアの田舎町の風情に、心癒されてシャッターを切る。



 アウストラーダは、この先フィレンツェにつながっていく。
 そんなフィレンツェのお話は、またいつか。






スーパーマーケットの悦楽
 旅先でうまいものを確かめたくなったら、必ず市場に足を運ぶのだ、と以前バルセロナの章で書いた。

 もうひとつ、街にたどり着いたら必ず足を運びたくなるのが、スーパーマーケット。到着したらすぐ、ミネラルウォーターを求めてスーパーを探す。

 ついでに、あれこれ、あれこれと買ってしまう。
 市場がうまいもの探しなら、スーパーマーケットはおもろいもの探しだ。何時間もかけてこんなに遠くまで来て、それでもなお、毎日している買い物の延長がしたくなる。
 あら、きゅうりが妙にでかくて固そうねえ。え、マーガリンがこんなに大きいの? ってか、缶詰の種類すごくない? …って、そんなこと確認して何が楽しいの? って思うんだけど、でも楽しいのだ。ほんと、主婦って因果な商売ね(笑)。


 ヨーロッパのこじんまりとしたスーパーも、国によって特徴があってとても楽しい。でも、スーパーマーケットといえば、やはり、本場アメリカにまさるものはなくって、旅先としてはアメリカにはとんと足が向かない私だけれど、ハワイとかグアムとか、そんなアメリカンなリゾート地に行ったら、何度も何度もスーパーに足を運んでしまう。

 特に、Kマートは巨大でお気に入りのスーパーのひとつ。



 このところのアメリカの向かっている方向や、今のアメリカのカルチャーシーンにはとんと興味がなくなってしまったけれど、それでも1960年代生まれの私を育てたのは、紛れもなくアメリカの文化だった。
 日本一号店におそるおそる足を運んで、生まれてはじめて食べたマクドナルドのハンバーガー。
 父や母が特別なもののように語る、西部劇やミュージカルの話をあこがれのまなざしで聞きながら育ち、おこずかいをためて名画座で「卒業」や「追憶」を背伸びした気分で観て、スーパーカーだの、スマイルマークだの、なんだかしらんがアメリカさんからやってきたハイカラなものにすぐ飛びついていた中学生の頃の私。
 NYもLAもサンフランシスコもほとんど区別がつかず、それでもそのどこにでもいいからいつか絶対いきたいと願った、夢の国アメリカ。


 あれからン十年。さまざまな国を旅して、文化の豊穣さや、食の豊かさの面では格段にヨーロッパを愛するようになってしまったけれど、それでもアメリカのスーパーマーケットに並ぶチープでサイケなプラスチックの日用品やおもちゃ類は、いまでも私のこころかきたてる。

 それはなんというか、子どもの頃にいっぱい記憶の中に貯金している、当時私がアメリカに感じた「わくわく」「どきどき」を一気に引き出ような不思議な感じ。
 それに、チープで長持ちしなくて、ちっともエコじゃなくって。でもそんなチープでサイケな小物を山ほど買うなんて、主婦は普段の生活ではしないんだよね。
 そういう、普段は理性で封印されているような部分が、リゾート地のスーパーマーケットでは無防備に解き放たれてしまう。「今日だけだから」と、なんだかどうでもいいようなものを大きなカートに入れて、スーパーの中を練り歩く。
 完全に頭のねじがはずれていく。
 この時間が、私はたまらなく楽しい。

 でもね。ああ、こんなに買ってしまったよ、どうしよう。。。。。なんて落ち込むぐらいカートを山盛りにしても、まあ、せいぜい1万円ぐらいなのだ。免税店やブランド店の買い物より、ずっと効率がよくて安上がりなのであーる。
 こういうとき、庶民に生まれてよかったなあと思う。
 だって、これでほんとのほんとに、すごく幸せになれるんだもの。



 写真はハワイ島で買ったおみやげの数々。もうむちゃくちゃだ。大量。これだけのおみやげをスーツケースにつめて帰ってきたのだ。ああ、楽しい。



 生鮮品や調味料を扱うスーパーも楽しいけれど、私が好きなのはアメリカンなチープなキッチングッズとおもちゃたち。
 3枚で10ドル前後で売られているかわいい柄のキッチンクロスとか、一枚5ドルぐらいの派手派手しい柄のビニール製のランチョンマット。日本では絶対に手にしない、プラスチック製の大きなコップ(これに大量に氷を入れて、コーラを飲むと無性においしい)。

 あとは、じゃらじゃらと20個ぐらい束になった安っぽいキーホルダーとか、日本では高すぎて絶対に手を出さないレゴの大箱のセットとか。(最初の写真の中央にある箱はパイレーツオブ・カリビアンの海賊船のレゴ。日本じゃ絶対に買えない=高くて)。



 左上でビニール袋に入っているいろとりどりのものは、びよんびよんと手足が伸びるべたべたしたゴム製のかえるのおもちゃ。使い道は何もない。でもたまに取り出して、足をびよんびよんと引っ張ってみたりする。引っ張ったあとに、勢いよく手を離すと「ぱちん」と音がして楽しい。
 旅行先のスーパーマーケットだから、こんな無駄な買い物が許される。うれしい。


 その土地で有名なお店を調べて、ちょっと奮発していいものを手に入れる楽しみも、とても素敵だけれど、意外と、こんな風にスーパーマーケットで理性のねじをちょっとゆるめて買ってきたような、どうでもいい日用品が、実はわが家では一番活躍していたりする。
 大切すぎないほうが、心置きなくいっぱい使える。日用品って、意外とそういうことが大事なのだと思う。

 これを書いている今も、ダイニングテーブルの上にあるのは、グアムで買った果物柄のランチョンマットと、おそろいのプラスチックのコップ。足元は3足5ドルで買ったショートソックス。


 スーパーマーケットはえらい。スーパーマーケット万歳!

バリ島、置き忘れたもの
 まじめに平凡に公務員の仕事を勤め上げた父にとって、海外旅行は人生の選択肢にあったことがなく、彼は定年後に生まれてはじめて飛行機に乗り、日本以外の土を踏んだ。場所はグアム島。「両親を海外に連れていく」という使命に燃えていた私は、碧い海と広い空に父も感動するものと、勝手に思い込んで家族旅行を計画したのだ。

 ところが。このグアム滞在2日目で彼は「もう何もやることがない」と旅を放棄してしまった。
 仕方なく家族がプールサイドや免税店に出かけて戻ってみると、夕陽が見える高級ホテルの部屋のカーテンを締め切り、カウチで囲碁の本を読んでいた。そんな日が4日続いた。
 結局彼のグアムの思いではホテルのカウチと囲碁の本とビールという形で残っただけで終わったようだ。日差しは疲れる、水につかるのも疲れる。俺はバスで観光地を回ってもらうような旅がいい。以降、どんなに誘っても父はグアムには足を向けなかった。

 私の父はフルパックで安全に、なるべく多くの場所を効率よく回ってくれるような旅がいいのだという。「自由に過ごしてよい」と見知らぬ街に放り出されたら、途方にくれてしまうのだ。


 そんな父が70歳になったとき、「一生のうち、もう海外に行くことなんてなかいもしれないよ。みんなで行こう。どこがいい?」と、もう一度海外旅行にいざなった。
 「うーん。ヨーロッパは遠すぎる。ハワイなんて行ってどうする。アメリカには興味がない。」(へ? 行ったことないくせに。。。。。笑)「じゃあ、バリ島は?」「あ、インドネシアなら行ってみたい」。おお。
 かくして、じじばば、娘と孫というユニットのバリ島観光旅行は実現したのでありました。



 成人して、社会人となり、そんな立場から両親を海外旅行に連れて行くというのは、自分にとってどこかで「一人前になった私」の確認作業だったのだ。
 初老で海外、父の希望でもあるパック旅行には「ニッコー・バリ3泊、リッツ・カールトンのヴィラ2泊」のコースを選ぶ。「もう一度来よう」という選択肢が限りなく少なくなっていく老年の旅に、費用を惜しんで何になる。移動にも、宿泊にもなるべくストレスを少なく。散財はしたくないけれど、少しのお金を惜しんで我慢せず、できることはなるべく体験し、行けるところに惜しみなく足を運び、うまいものを食べおみやげを買い、思い残すことがない旅をするぞ!

 家族でバリ島「一生に一度の旅」は、限りなく気合の入った旅だったのだ。

 さて、その中身はこんな風なものだった。

 到着したニッコー・バリのテーブルには山盛りのフルーツバスケットが。バスルームにはバラの花びらが浮かび、翌朝はルームサービスの豪華な朝食が部屋に運ばれた。ホテルには滞在者用のアクティビティがいくつもあり、私たちは海岸線をらくだに乗ってトレッキングし、バスに乗ってスミニャックに工芸品を探しに出かけ、ウブドの山の中でケチャックダンスを見たあと、美しい女性たちが踊って給仕してくれる王宮料理の店に行ってインドネシアの料理を食べた。 



 専用ガイドに頼めば、レギャンの海岸線の屋台にも、バリ島の陶器ジェンガラの工場にも、クタの海岸にもつれていってくれた。
 たぶん、家族で一度しかこないバリ。行き残した場所がないように、地図の中の観光地をくまなく塗りつぶさなくては、と私は燃えた。全部見せてあげたい。全部つれていってあげたい。脳内は完全に添乗員状態だ。



 後半に移動したリッツカールトンのヴィラには、大きな天蓋月のベッドとプライベートプールと、丘にせり出すようにしつらえられたあずま屋があり、ここに身を横たえるとバリ島特有の湿った植物と海のにおいに混じり、遠くからガムランの音が聞こえてくる。夜はこのあずま屋にルームサービスを頼んで、月明かりの下でお酒を飲みながらカードゲームをしてみたりした。何から何までが、快適でゴージャスでロマンティック。これぞ完璧なバリ島の旅だ!!!


 さて、そう思って帰国して数年。
 どうしたことだろう。

 今、バリ島は私の中で、とても希薄な場所として存在している。
「キュンと胸が締め付けられるような、何気ない風景の記憶」とか、「一瞬の風のにおい」とか、ほかの都市にはたくさん存在するそんな「ノスタルジィ」ではなく、「行った」という事実と達成感が残る街として記憶されているのだ。

 旅をカタログ化してしまったのだ、と思ってみる。
 カタログには余白も行間もない。

 余白も行間もない旅は、私が思っていたこれまでの「旅」とは、ちょっと違うものだったのかもしれない、と今さらながら気づいてみたりもする。

 行くからには、なるべく効率よく全部見てこよう。体験できるものは全部やってこよう。だって、きっと二度と来ることはないのだから。
 日本のパック旅行は、たいていそんな意図のもとに設計されているけれど、それでもそんな風に旅行会社が企画したツアーの工程の中に
「あのとき入り込めなかった路地の先に、何があったのだろう」とか
「通り過ぎてしまったあの美しい街に降り立つのは、どういう気分だろう」
なんて思いがたくさん残るから、旅は深みを増し、「行き残した場所」「知りきれなかった何か」を内包して、ノスタルジィな記憶を残すのだ。


 私はたぶん、そんな余白さえ残さない完璧な計画を作ってしまったのだ。
 そして、バリ島に何一つ忘れ物をしないで帰国してしまったに違いない。

 「もう二度と行かないかもしれない」場所であっても、旅は何か忘れ物をしてきたほうが、きっといい。
 知り得なかった何か、行ききれなかったどこか、という置き忘れたものがあるような気がするから、また行く口実が残る。

 そして、そんな口実がある限り、その場所と自分はつながり続けることができる。



 次にバリに行くことがあったら、ウブドの山に登ってたくさん忘れ物をしてこよう。
 そうじゃないと、なんだかバリ島に申し訳ないような気がするのだ。

 世界中に忘れ物をしたい。
 私にとって、旅とは、きっとそういうようなもの。

コードダジュールの絵になる男たち
モナコを抜けてニースへ。空は抜けるような青空だ。



狭い切り立つような崖にしがみつくように立ち並ぶ豪邸、ヨットハーバー、そして翌月に開催を控えるF1グランプリのゲート。
高級車がパレードのように行きかうカジノ前のロータリーに面したカフェ・ド・パリのテーブルで、いったいなぜ、私はこんな街にいるのだろうと、途方にくれていたモナコの2日間。


モナコの息苦しさから逃れるようにSNCFに乗り、たどり着いたのは地中海屈指のリゾート地、ニースだ。虚栄や羨望が、金メッキとフリルをまとって街中を彩っていたモナコに比べ、ここニースの海岸線は屈託のない「観光地」の気安さに満ちている。



汽車の形をした観光バスが行きかい、南仏プロバンス風のみやげもの屋が軒を並べ、テラス席ではガイドブックを広げた老若男女がピザやムール貝をつつきながら、ばら色のワインを飲んでいる。

でも、一歩旧市街に足を踏み込めば、コートダジュールという名の夢の保養地とは一線を画する、別の世界が広がっていることを知ることになる。
トリノ条約でフランス領になったここニースは、1860年まではサルディニア王国というイタリア領だった。旧市街には、こんな当時のイタリアの色彩と空気感が漂う不思議な空間が、迷路のように広がっているのだ。



イタリアの都市の裏側に漂う、あの独特な空気感は何なのだろう。

パリのそれとも、ドイツのともスペインのそれとも違う。イタリア独特の明るい太陽の色彩をまといながら、いつもどこかに「影」がつきまとう街の気配。
情熱や危険な香りをはらんだ影を内包しながら、昼下がりの街角にはしっとりと生暖かさを含んだ倦怠感が漂っている。そんな旧市街をあてどなく歩いていると、時間や空間の感覚を一瞬なくしてしまうような錯覚に陥る。

ニースは、表向きはリゾート客に柔和な顔を見せているけれど、一歩旧市街に入り込むと、イタリアの都市独特の空気感が「観光客であるお前の好きにはならないよ」「そう簡単に手の内を見せてなるものか」と強烈な意思をもって挑んでくる。こんな「影」を抱き合わせたような街が、私は心底好きだ。

周囲に熱烈に薦められて足を運んだハワイのマウイ島がつまらなかったのも、世界一清潔な街だと一押しされてでかけたスイスのジュネーブが退屈だったのも、きっとそこが私にとっては「ぺっかりと影のない、清潔で美しく安全な場所」に映ったからなのかもしれない。ディズニーランドが苦手な私にとって、影のない場所はしみじみ居心地が悪いのだ。

ところで。
そんな「表向きは柔和なのに、手ごわい」都市には、いかにもそんな都市に似合う絵になる人が存在する。街のたたずまいが、人のたたずまいも作る。だから、そんな人を街の風景に中にみつけると、うれしい。なんだか得した気分だ。むふふ、とほくそ笑んで、こっそりとカメラに収める。ごめんね、ちょっとだけ。自分で楽しむだけだから。



人の中にも、光と影は共存しているもんだ、と思う。影だらけの人というのも怖いものだけど(笑)、ではぺっかりと影のまったくない明るさがいいかというと、そういう人とはしばらく一緒に過ごすうちに、私は逆にどうにも居心地の悪い不安を感じてしまうような気がする。歴史を重ねた影をいい塩梅に抱き合わせて共存している人のほうが、人間くさくて信用できるんじゃないか、なんて思ったりもする。
で、そんな風にいいころあいにかっこよく影を内包できるような歳の取り方を、私もまたしてみたいものだ、なんて思うのだ。



ニースの街に帳がおりて、紺碧の海が深い闇に包まれ始めるとき。風景は海の色をまとって、Cote d’azur「碧い海岸」の名の通り、街全体が碧い碧い姿に変わり始める。碧い闇を背景に、ネグレスコホテルとカジノのネオンが長い夜に観光客をいざなうころ、海と空の境もわからなくなった海岸線にはぽっかりと月が浮かんでいる。



フランスとイタリア、観光地と旧市街、光と影。そんな二つの顔を持つニースは、もういちど歩いてみたい街のひとつだ。月並みだけど、でもやっぱりコードダジュールって、すごい場所であったのだ。そんなニースのおいしいお話は、またいつか。
バルセロナの2つの市場にて

 はじめての国に行ったら、市場に足を運びたくなる。だって、食べることって人間の基本でしょ? その国の人がどんなものを食べ、それはどんな売り方をされて、いくらで売られているのか。食が見えると、その国の色やエネルギーや気質が見えてくるような気がする。市場ほどエキサイティングな場所はない。心からそう思う。


 以前、息子がまだ小学生だったとき。夏休みの自由研究に「世界の料理を食べる」というテーマを掲げてみたことがあった。好き嫌いや食べず嫌いがとても多かった息子。ギリシャのアテネでオリンピックが開催されたこの年、「ギリシャ料理を食べてみようよ」「アフリカの人って何を食べているんだと思う?」。そんな問いかけをしながら、世界の主食や特産物を調べては、これは役徳だと身近にあったレストランに足を運んでは、各国の料理を食べ歩いた。あれは楽しかったなああ。

 そのとき、最初に息子と約束したのが、こんなことだった。
「どんなものが出てきても、絶対に顔をしかめたり、まずいと言わないこと」
「どの国の人も、長い時間をかけた知恵でおいしく食べている料理があるのだから、ちゃんと敬意をはらって食べよう!」。
 大嫌いだったナスが、ギリシャ料理のムサカで食べられるようになり、手を触れるのもいやだったピータンの皮をむいて食べ、その翌年にはタイ一匹をおろせるようになっていた息子。食は家のキッチンだけではなく、その先の広い世界とつながっている。世界を知るための手がかりに、食があっていい。食の体験は偉大だ。



 バルセロナの街の中心には、ランブラス通りという大きな通りが貫いている。並木道をはさんだ両側には、劇場やレストラン、ホテルが軒を連ね、夜遅くまでネオンが輝く大繁華街だ。この真ん中に、市民の胃袋ラ・ボケリア市場がある。



 市場の入り口でスカンピを売っているのは、美しくて若い女性たちだ。生々しく赤い色を積み重ねたスカンピの山の向こうには、色とりどりの野菜や果物、生ハムや肉類を扱う個人商店が累々とつながっている。薄暗い市場の中には、スペイン映画の奇才アルモドバル監督の映画のワンシーンを見ているような、鮮やかな情熱を含んだ色彩の洪水が渦巻いていて、息苦しいほどだ。



 スカンピを売る女の子の横では、もくもくと豚の頭をからだから切り離している女性がいる。思わず、足が止まり彼女の動きに魅了される。人間が生きるために殺されていく動物たちの姿は残酷ではあるけれど、一方でなんと美しいのだろう、と思う。街の中心部で、こんな作業を黙々と繰り返す女性の姿は、どこか神々しいほどだ。



 以前、子ども同伴で移動した旅先で、豚の頭や鳥が並ぶ市場を顔をしかめながら「気持ちが悪い、残酷だ、くさい、汚い」と言いながら歩き続けた親子がいた。そうなんだろうか。きれいに処理されたスーパーマーケットの食材だけで、ヒトのいのちなんて維持できるんだろうか。頭も耳も、内臓も血も皮も、その姿を偽ることなくありのままで、残さず食べようと思えるほうが、ずっと正しい命のあり方じゃないの? だから、私はこんな風に市場に胃袋や臓物が並ぶのを見て興奮し、この臓物と格闘する女たちや料理人を想像しては、悦楽に浸ってしまう。
 神様はちゃんとからだの中まで、美しく美しく作っている。いのちって、隅々まで美しいものなんだということを、市場は教えてくれる。



 このラ・ボケリア市場のあるランブラス通りからゴシック地区を抜けて、カタルーニャ音楽堂を目指して歩き始めると、視界の向こうに突然色とりどりにうねるタイルの屋根が見え隠れしはじめる。こちらはサンタ・カテリーナ市場

 この市場は2005年にリニューアルされたばかりだ。タイルや木を基調にした建造物のデザインは、建築家エンリック・ミラーリェスの手によるもので、日本の美術館でも建築模型の展示などもされて注目を集めた。

 建築中に市場の地下から遺跡が発見されて、完成までに長い時間がかかっただけでなく、ミラーリェスは工事半ばで亡くなってしまい、妻のベネデッタ・タグリアブエが一人で完成させたといういわくつきの市場は、さっき迷い込んだばかりのラ・ボケリア市場から徒歩で10分もかからない場所にある。この新旧の2つの市場が、バルセロナっ子の胃袋を支えている。



 豊かな食材に囲まれた街、バルセロナ。巨大な2つの市場と、カフェとバールがひしめき合い、小さな路地の目立たない店にもちゃんと客がいてにぎわっている。 海岸線の新しい開発地区でもあるバルセロネータを散策すれば、目の前の海で採れた魚介類をふんだんに使ったパエリアやブイヤベースの店が軒を連ね、街中が「さあ、食べよう、飲もう、楽しもう」と誘ってくるようだ。



 こんな素直な食欲がある場所が、私はつくづく好きだなあ、と思う。アイスクリームやポテトチップやハンバーガーで太るんじゃなくて、こんな風にいのちに近い食材を新鮮に食べて、笑いながら、愛し合いながらお酒を飲んで太るのなら、それもいいじゃないの? 健康のためにとウエストばっかり測って暮らすより、ずっとしあわせだよって思うのだ。
パリー 地面を確かめたくなる街

 中心を川が貫いている街は、多い。たとえばロンドンのテムズ川、プラハのエルベ川。写真はブダペストのドナウ川。

 ヨーロッパの街歩きに疲れたら、たゆたうように街を横断する川べりを歩きたくなる。それは、歴史と喧騒の時間を積み重ねたヨーロッパの街の濃厚な空気感からひととき逃れるための、いい口実になる。
 川は不思議だ。何世紀も前から変わらずそこにありながら、流れる水はひとときも同じ場所にとどまらない。ゆるゆると流れる水面を見ていると、古いふるい街の歴史と自分が、ほんのひとときつながれるような錯覚に陥る。古い街と川は、だからとても相性がいい。


 そんな川と街の関係の中で、昔むかしから私が愛してやまないのは、月並みだけれどやっぱりパリとセーヌ川の関係だ。もう、パリフリークと言われたっていいの。はずかしくてもOK。だって、私はパリが大好きなんだもの。

 私の大好きな映画のひとつに、「パリ空港の人々」というのがある。ハリウッド映画でトム・ハンクス主演の「ターミナル」の元ネタでもあったこの映画は、わけあってシャルル・ド・ゴール空港から出られなくなってしまった主役のジャン・ロシュフォールが、同じように空港内から出れないまま、国籍も住所もないままに住み着いている人たちとの数日間の交流を描いたもの。
 この映画の中で、空港内の窓もない小さな部屋で、パリにいながら一度もパリの街を見たことのない移民の子どもに、ロシュフォールがテーブルの上にパリの街を再現するシーンがある。おもちゃのエッフェル塔に消しゴム、コーヒーカップでできたパリの街。想像の世界できらきら輝くこのパリの街を作るとき、ロシュフォールが最初にしたのが「テーブルの真ん中にチョークでセーヌ川を描く」ことだった。

 セーヌがなければパリにはならず、パリがなければセーヌもない。パリとセーヌの関係は限りなく濃厚だ。

 そう何度も行けるわけではないけれど、それでもたまに無性にパリに惹かれてホームシック(!?)になる私は、はじめてこの街を訪れた25歳のあの日から、これまで仕事も用事もないのに何度も口実を作ってはパリに足を運んできた。何をしにいくのかと聞かれても、よくわからない。とにかくそこにいたいから、行く。パリにいる自分を確認したいためだけに、12時間の飛行機に、乗る。


 そんなパリ行きを決行したとき、いつも最初にしたいのが「セーヌ河畔を歩く」こと。味気ないといえばそれまでの石畳の河畔を、朝に、昼に、夜に、せっせせっせと歩きたい。たまにはスキップもしたい。その場で飛び跳ねたりもしたい。
 橋をくぐり、橋を渡り、ベンチに座り、シテ島の突端から観光船に乗り、そして映画「ポン・ヌフの恋人たち」でジュリエット・ビノシュが座っていたポン・ヌフ橋のせり出したベンチに身を乗り出し、犬のおしっこくさいわき道を通ってハミングしながら歩き続けたい。そんな風にセーヌ河畔に自分の足跡をしこたま残して、また私はパリの街に戻ってこれるんだよね、って確認したいのかもしれない。



 旅って、ほんとに不思議だなあと思う。時間をかけて遠くの憧れの街について、それでもなお、なぜ自分がここにいるのか、なぜこんなに遠くのあの街に自分が存在しているのかが、実感できずに夢見心地になってしまう。危うげではかなげな、そんな寄る辺ない気持ちに襲われると、私は気がつけば足元を見ている。
 私の足、この街を踏んでるよね。こんな場所に、いま立ってるよね。これって、ほんとなんだよね、って。そう思って、つい地面の写真を撮る。私のスナップショットには、だから地面の写真がとっても多い。


 パリは何度行っても、そんな風に「地面を踏みしめたくなる」街だ。到着すると、無性に懐かしい。いるべき場所に戻ってきたという感触に身を包まれるのに、ちょっと目を離した隙にまた、パリから引き離されてしまうのではないかと、心細い不安感に駆られる。だから私は、パリの街に立ってセーヌを見渡して、本当に来たことを確かめるように河畔をスキップする。たくさん足跡を残して、たくさん地面の感触を自分の細胞に刻みつけて、そしてまたこれますように、って。
 これはおまじないみたいなもの。


 あと何年、あとどれだけ、私は自分の足跡を世界に残せるのだろう。少しづつ少しづつ、一歩づつの足跡を残していくことに、ちっちゃな意味を感じられるような、そんな旅がこれからもできるといいなあ、ってよく思う。

 あああ、それにしても。

 何度行っても、なぜこんなにパリに行きたいんだろう。こんな文章を書きながら、のんびりぼんやり、セーヌ川の風景を思い出しながら、仕事机の下で小さくスキップしてみたりする。冷たくて硬い石畳だけど、なつかしくてあったかい。セーヌはやっぱり素敵だ。きっとまた、行く。いつ、行く?


鉄道のたびの悦楽

 はじめてヨーロッパを鉄道で旅したのはいつのことだっただろう。フランクフルトからブレーメンへ。ブレーメンからオランダのアムステルダムへ。どこで切符を買い、どうやって時間を調べたのだろう。語学ができるわけでもない20代の私は、ずいぶんと向こう見ずだったに違いない。いやほんま、何を考えていたのか、自分。

 下手にわかっていると怖くなる。何も知らないから、立ち向かえることもある。アダムとイブは知恵の実を食べて楽園を永久追放されたけど、この「知恵」というやつは時としてやっかいだ。中途半端な知識は「恐れ」や身構えを呼んで、自分で勝手に自分の限界を作ることもある。現代社会の中での知識や情報って、世界を広げるようでいて、実は世界をせばめていることもあるんじゃないのかな。無知でいることから生まれる知恵だってあるはずなんだ。


フランドル語とドイツ語で駅名もよくわからない鉄道の旅に、予備知識もないままでかけられたのは、ひとえにこんな「無知」のなせる業だったんだろう。でもそんな体験があったからこそ、今こうして、ヨーロッパの鉄道の旅を楽しめている自分がいる。鉄道のたびをしていると「世界の車窓から」の石丸 謙二郎のナレーションがそのまま聞こえてくるような気になる。もうこれは、正しくまっとうな旅の悦楽だ。

 小さな国がひしめきあうヨーロッパ。このヨーロッパを旅する醍醐味は鉄道に尽きるといってもいい。郊外電車に乗る感覚で、小さなコンパートメントに腰を落ち着ければ、数時間で窓の外に広がる景色は歴然と変わりはじめる。乗り降りする人たちの風貌も、駅名の文字も車内アナウンスも変化を繰り返す。数時間のうちに国が変わり、言葉が変わり、人種が変わっていく不思議。島国に生まれ育った身には、それだけでもう、大きなカルチャーショックだ。


 昨年は、ベルリンからチェコのプラハに向けて列車に乗った。



 ベルリンは壁の崩壊後に街の整備が進み、旧体制の東側に広がる巨大な通りと、無意味に大きくそっけない建物群に入り混じり、近代的なビル群が軒を連ねるようになった。写真はベルリン中央駅。どうだ、すごいじゃろう。

 この鉄とガラスの巨大な建造物。スマートなのか無骨なのかわからないデザイン、意味をもたない巨大な吹き抜けの空間。それでも、そこにあるだけで異様な存在を誇示する、街の新しい顔。
 こんな駅が、何もない広場と公園の真ん中に突然出没する街、ベルリン。ドイツのこうした無骨で飾り気のない気質は住宅にも現れており、この駅から郊外に向かう鉄道の車窓からは、広大な平地の牧草地と箱のように味気ない家々が延々と続いていくのが見える。建物も直線、風景も直線。無秩序な曲線を徹底して排した国ドイツ、ドイツ、ああドイツ。ここはまぎれもないドイツなのだよ。


 1時間ちょっと列車に揺られているうちに、そんな直線の風景が、微妙に変化をはじめるのがわかる。蛇行する河に寄り添うようにそそり立つ丘陵地。景色は突然曲線を帯びはじめ、整然とした町並みに漂う空気感が、湿り気を帯びはじめる。

 どこかなつかしいこの皮膚感覚は何だろうと思っていると、車内に流れていたドイツ語の放送に、突然聞き覚えのない言葉がかぶさるようになった。平行して流れる英語をどうにか聞き取ってみると、どうやらあと数分で国境はドイツを越えて、チェコに入るらしい。

 ドイツ語、チェコ語、英語の3重構造で繰り返される放送は、これから先の運行はドイツの鉄道会社からチェコの鉄道会社に引き継がれることを語っている。空港で厳重なチェックを受けなければ国境を越えられないとインプットされている島国頭には、こうしていともかんたんに新しい国に入っていくことに、なかなか慣れることができずにいつも緊張してしまう。国境線はどこなのだろう? と確かめるように、窓外の景色を見つめるまなざしもいつになく念入りになる。


チェコは1989年からの「ビロード革命」によって共産党体制が崩壊し、2004年にはEUへの加盟も果たしたが、今でもユーロではなくフリント通貨が流通する、旧体制の色合いを残した国だ。それでも、首都のプラハはブダペストやポーランドの剛健な色合いに比べ、どこか享楽的で国際色が豊かな不思議な街。
 そんなチェコへまぎれもなく足を踏み込んだことを知ったのは、飾り気のない紺尽くめの制服を着た車掌が突然、コンパートメントのドアを開けて「パスポート!」と手を差し出したときだった。

 イタリアやスペインなどEUの国境を越えるときに、鉄道でパスポートを要求されたことは私の経験の中ではない。笑顔のない紺尽くめの車掌の威圧感に、思わず緊張してしまう。検閲を受けてる気分になるけれど、チェコの入国スタンプをポンと押してくれるのを見て、思わずにこにこ微笑えむ。つられて、こわいと思っていた車掌も、にこりと微笑む。ポケットモンスターのスタンプラリーじゃあるまいし、スタンプ1個で大人が喜ぶのもどうよとも思うけど、普段のEU間の移動ではもらえないスタンプがパスポートに増えるのは、なんだかちょっとうれしいおまけのような気分だ。


 プラハの町並みは、曲線と無秩序と湿気をはらんだ、おとぎの国のにおいがする。直線の国から曲線の国へ。窓外の景色がかわり、言葉がかわり、空気感が変わって、新しい街への期待がふくらみはじめるのがわかる。突然空港に降り立つのも素敵だけれど、こうして小さな発見を繰り返しながら続いていく鉄道の旅が私は好きだ。そんな鉄道の旅、そして不思議の国チェコのお話は、また今度にあれこれ続きます。

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